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白面金毛九尾の狐
前11世紀頃、中国古代王朝殷の最後の王である紂(ちゅう)の后、妲己を喰い殺して彼女に化け、酒池肉林、炮烙(ほうらく)の刑等を編み出し、暴政を敷いた。周の武王率いる軍勢により捕らえられ、処刑された。またこの処刑の際に、妲己の怪しげな術によって首が切れないとき、太公望が照魔鏡を取り出して妲己にかざし向けると、白面金毛九尾の狐の正体を現して逃亡しようとした。太公望が宝剣を投げつけると、九尾の体は3つに飛散したと云われている。
南天竺(古代インド西域)の王子班足太子の妃・華陽夫人となり、王子へ千人の首をはねるようにそそのかすなど暴虐の限りを尽くす。 前780年ごろ、褒姒という女性に化け、申后に代わって周の第12代の王、幽王の后となる。褒姒がなかなか笑わないので、幽王はさまざまな手立てを使って彼女を笑わそうとし、ある日何事もないのに王が烽火(のろし)を上げ、諸侯が集まったという珍事に初めて笑ったといわれ、それを機に王は何事もないのに烽火を上げ、諸侯が烽火をみても出動することが無くなり、後に申后の一族が周を攻めたとき、王は烽火を上げたが諸侯は集まらず、王は殺され、褒姒は捕虜にされたといわれている。 753年、若藻(わかも)という16、7歳の少女に化け、彼女に惑わされた吉備真備の計らいによって、阿倍仲麻呂、鑑真和尚らが乗る第10回目の遣唐使船に乗船。嵐に遭遇しながらも来日を果たしたといわれている(第9回の遣唐使に来日という説もある)。 来日から約360年後(1113年頃か)北面の武士である坂部行綱(さかべゆきつな)が子宝に恵まれなかったため、九尾の狐が化けたとも知らずに藻女(みずくめ)という捨て子を拾い、大切に育てられる。 17年後(1130年頃か)、坂部夫婦に大切に育てられた藻女は18歳で宮中に仕え、玉藻前(たまものまえ)と改名する。その才能と美貌、優しさから、次第に鳥羽上皇に寵愛され、契りを結ぶこととなる。しかしその後、鳥羽上皇は病を発する。そして、その原因が玉藻前であると発覚し、玉藻前は白面金毛九尾の狐の姿で宮中から逃亡した。 数年後、彼女は下野国・那須に現れ、婦女子や旅人を誘拐し喰い殺すなどの暴行を働いたため、鳥羽上皇は白面金毛九尾の狐の討伐を命令。8万の軍勢が那須へ集結する。軍勢は白面金毛九尾の狐を捕らえて殺すことに成功する。九尾の狐はその直後、巨大な毒石(殺生石)に姿を変える。 室町時代初期、会津・示現寺を開いた玄翁和尚によって、殺生石は破壊され、各地へと飛散する。 PR コメントを投稿する
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